獄門島
市川崑の金田一耕助シリーズ第三作目。
小説版を読了しました。
原作小説はシリーズ屈指の名作の呼び声が高い。その理由は個々ありましょうが、
「実質初作であること」
「殺人事件の詩的センス」
の二つが考えられます。
金田一が初めて登場するのは初作『本陣殺人事件』です。本作の九年前、金田一が二十五、六歳の時の事件でした。事件解決は若き金田一のおごりが見られ、解決を勿体ぶったために二次被害を招いてしまったり。和製『シャーロック・ホームズ』の作風が日本の田舎の因習とマッチしていませんでした。しかし、本作から金田一は別人のようになります。
その理由は金田一が従軍したことにあります。本作の時代は昭和二十一年の終戦一年後。金田一が戦地ニューギニアから帰国して間もない頃です。まるで人生観が変わったように、推理力や洞察力から軽薄感がなくなり、金田一が探偵特有の〝よそ者感〟なく土地に溶け込んでいます。これこそが読者の知る金田一かな。本作が初作でも問題ないでしょう?
トラベルミステリー。
もちろん、物語もすばらしい。瀬戸内海の獄門島という舞台は村落や集落などの陸の孤島よりもさらに因習が根深い。本作ならば本鬼頭家と分鬼頭家で島を二分していること。その本家の跡取りが次々と死んでいくのが本作の事件です。必然、分家に容疑がかかるのですが、ここで金田一の名推理が光る。トラベルミステリーは金田一のみならず読者にとっても戦後の羽休めになったことと思います。
最大の特徴は「俳句に見立てた殺人事件」
「鶯の 身をさかさまに 初音かな」
作者:其角(1661 - 1707)松尾芭蕉の弟子
季語:鶯(春)
意味:鶯が梅の木でさかさになって蕾に初音を聞かせている
「むざんやな 冑の下の きりぎりす」
作者:松尾芭蕉(1644 - 1694)
季語:きりぎりす(秋)
意味:斎藤実盛の兜(石川県多太神社)の下で鳴くコオロギの儚きこと
「一つ家に 遊女もねたり 萩と月」
作者:松尾芭蕉(1644 - 1694)
季語:萩(秋)と月(秋)の季重なり
意味:市振(新潟県)で遊女と同じ宿になった。萩が月に照っているな
「風情がある」と死体にも言えてしまう。このトリックは小説版の解説部分を読めば、ディクス・カーやアガサ・クリスティー作『そして誰もいなくなった』からヒントを得たことが書いてある。だが、俳句殺人のセンスは真似できまい。
獄門島とは。
岡山県と広島県と香川県の三県の県境に位置する架空の島。江戸時代に島の開墾で集められた流刑囚の獄門の地だったことからついた名。それ故に島民が海賊や流刑囚の子孫ばかり。他の島からも曰くがつけられるほど。
ここから映画版の話。
個人的に、映画は原作に忠実たりえないと思っています。映画は原作の取捨択一過程でニュアンスが変わっていく。映画化できるのは物語がせいぜい、人物像を収めきれない。こと、登場人物を推理しなければならないミステリー小説にとってそれは致命的。そこで映画はあえて推理部分を省き、物語のみにフォーカスさせる。原作既読者でなければ推理過程が分かりづらい。
本映画版も推理小説を事件ドラマに改変した感じ。というのも、小説版で順々に明かされる謎を同時に暴いたり、話の前後を入れ替えたり、推理部分を省略したり、本映画版はとても謎解きできるものじゃない。そういう意味で本作は原作小説の既読者向け。また、原作既読者でなければ気づかない部分も多々あったり。特に、冒頭数分が事件の鍵を握ることには気づくまい。
ただ、映画版限定の登場人物である轟警部が懇切丁寧にミスリードしてくれるのでフーンと耳を傾けるのも悪くない。
小説との相違点。
▪️金田一が戦争に行ってない?
▪️鬼頭千万太が金田一の友達の友達
▪️獄門島へ向かう船での会話を港で済ます
▪️金田一の
▪️鵜飼章三の背景を省略
▪️轟警部の登場の有無
▪️花子の首が⋯
石坂浩二さん。
金田一耕助は大卒のインテリ感とそれを感じさせない田舎者感の間にいる。若い石坂さんは慶応卒ながらも役者下積み時代がそれを感じさせてくれます。
また、本作の真骨頂は死体にあります。すなわち、月代(浅野ゆう子)、雪枝(中村七枝子)、花子(一ノ瀬康子)の三人娘の死体に。視覚効果にこだわる監督が最も力を入れた部分に思います。ホントに寝てる様。
何気に、シャア(吹替の池田秀一さん)います!
◼️原作
小説:獄門島(1947)
作者:横溝正史
連載:月刊宝石(1947/1 - 1948/10)
出版:岩谷書店、角川文庫
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